いも工房

わたしの趣味をここに綴ります(※当ブログは転載完全フリーです)

ひぐらしが鳴く奥能登のゆきどまり

ひぐらしが鳴く奥能登のゆきどまり」

どんな風景を思い浮かべますでしょうか。



さて、7月26日(土)の夜23:00頃、また石の採集に出かけました。

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目的地はココです。

到着したのは、明けて7月27日(日)の2:30くらいでした。

4:30くらいになれば夜があけて明るくなり始めます。
車の中で2時間ほど寝ました。

やっぱり4:30くらいになったら、大分明るくなりました。
駐車場から灯台まで500mくらいありますので、徒歩で出発です。

灯台があるくらいなので、平地ではありません。
結構な坂で息が切れるくらいですが、頑張って上がって行きます。
まだ完全に夜があけている訳ではないので微妙に薄暗いですが、ヒグラシがたくさん鳴いています。なんだか良い雰囲気です。

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灯台に到着しました。

ひぐらしが鳴く奥能登のゆきどまり」
どうでしょう、想像通りの光景だったでしょうか。



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なんだか、変わった看板というか、風変わりな演出です。
一種の詩的表現を感じる気がしますね~。


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これは・・・?

そう、別に私の詠んだ句ではなくて、山口誓子っていう文人の詠んだ句です。
(ちなみに、下の名前が一見女性かと思えるような当て字ですが、男性ですよ)

山口誓子って方も、私と同じようにヒグラシの鳴き声に何らかの感銘を憶えながら灯台までの坂を上がっていったんだろうな~、と思い、その点は感慨深いものがありました。


ただ、私は以前から正岡子規が好きなので、“ひぐらし”の部分に共感を憶えたのはいいものの、次の瞬間には、
「この“ゆきどまり”って、どうなの? モロ理屈じゃんか。」
と思えて疑問を感じてしまいました。

「ゆきどまりっていう客観的事象だと思うべきなんだろうか」
そうも思いましたが、どうなんでしょうね。

主観的理屈を句に織り込んで、気の効いた表現ができたかの如く悦に入る歌壇の風潮を、子規は強く嫌っていたそうです。


伊藤園のお茶製品に日替わり的に印刷されている、妙な俳句群がありますが・・・、
季語も無ければ、句中に読み込まれていることは理屈ばかり。
その「主観的で自己満足的な理屈が句に上手く織り込まれているということ」について、主催者側が絶賛しているニオイがプンプン。

子規の考えでは「他人の主観なんて、本人以外の人間が聞かされると単に嫌味に聞こえるもの」なんだそうですが、俳句という創作活動における価値観の問題だから、正解は“これ”とか“あれ”とか一種類に決まっている訳ではないんじゃないかな~、という風にも思います。

でもね、確かに「絶妙な言い回しだろう、どうだあ」っていう気持ちが見え隠れする気はしますね。



さて、肝心の石探しです。

灯台の西方で硫化メノウが採れる」っていう情報がインターネット上にあったので、それを目当てにこの灯台に行ったんですが、灯台の周辺に石拾いのできるような場所はありませんでした。

“西方”ってどういう意味なんだろう?
そう思いながら車で西の方へ少々流して行くと、石拾いのできる海岸がありました。
でも、綺麗な良い石は特に見つけられなかったです。
珪化木は結構見つかりましたけどね。


ま、いいです。いいドライブになりました。

そのまま、色々な海岸で石拾いにチャレンジしながら、帰宅します。


途中で一箇所、ある海岸でだけ中々の収穫が得られました。
なんの才能もないのに、また子規のマネをして無理に一句詠んでみましょう。
その意味もよく理解できていないクセに、“理屈はダメ”“理屈はダメ”と自分に言い聞かせながら、

「波浴びて、水晶拾い、夏の浜」




それってどんな光景?





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え、全然違う? 句と光景がまるで一致していない?



タヌキ:アラ△グマよ、“夏”というのはお前の頭の中にある理屈だ。
    文明人であるお前が知っている、“ただの情報”だ。理屈以下の“情報”だ。
    そんな空が曇った光景に、夏もヘッタクレもあるか。まだまだだな。
    お前は季語という規定にこだわるあまり、自分を見失ったのだ。

私  :た、確かに。その通りであります。